41cm連装砲 のバックアップ(No.1)
ゲーム内情報
図鑑紹介
呉海軍工廠砲熕部で開発された初の純国産戦艦主砲です。
16インチ(40.6cm)を僅かに上回る、この41cm砲は「大和」型の46cm砲が登場するまで世界最大の戦艦砲でした。
戦艦以上の限られた艦が搭載することを許される、火力20という圧倒的火力の主砲。砲雷激戦でも凄まじいダメージを叩き出す。
史実でも長門型の代名詞として、いかんなく存在感を見せつけた。
上位互換には大和型戦艦に搭載された「46cm三連装砲?」があるが、こちらは大変入手が厳しいので、結果的にこの砲を使い続ける提督も多い。
史実情報
日本の象徴「長門」型戦艦に搭載された、圧倒的な大きさを誇る「41cm連装砲」。
本砲が開発された当時は大艦巨砲主義の最盛期にあたり、日本に限らず列強各国はこぞって建艦競争に勤しんでいた頃でああった。
そのなかで本砲を積んだ「長門」型戦艦の登場は、ワシントン海軍軍縮条約を取り決めるキッカケとなっている。
この条約の中で40cm以上の大きさを持つ主砲は製造が制限され、列強の中で40cm以上の主砲をもつ戦艦はたったの7隻だけとなった。
その「ビッグ7」の内の2隻が「45口径41cm連装砲」、通称「41cm連装砲」を主砲に据える、日本の戦艦「長門」と「陸奥」だったのである。
レイテ沖海戦を前に、ブルネイ泊地で停泊する「長門」
「長門」型戦艦に搭載されたことが有名な本砲であるが、次いで加賀型戦艦、天城型巡洋戦艦、紀伊型戦艦にも搭載予定であった。
「13号艦型巡洋戦艦」は46cm連装砲を搭載する予定だったが、製造見込みがない場合は「41cm連装砲」を三連装にしたものを搭載する可能性もあったといわれている。
(ただし13号艦型に関しての情報は福井静夫造船官が戦後になって予想したものなので、どこまで本当なのかは不明)
もちろんペーパープランだが、これを横に繋げた「四連装砲」は現実的プランとして進んでいたらしい。
なお前述のように本来ならば「加賀」とその姉妹艦の「土佐」も本砲を装備する予定であったのだが、彼女らに搭載される予定だったのは砲身長を増した改良型であった。
加賀型用に製造された砲身は加賀型戦艦が建造中止された後も保管され、後に「長門」「陸奥」改装時に流用されている。
また1930年代の大改装で砲塔が水圧旋回式のものから空気旋回式のものに交換された。
この際に不要となった「陸奥」の旧4番主砲塔が海軍兵学校に教材として譲渡され、現在も江田島の海上自衛隊幹部候補生学校に保管されている。
真珠湾攻撃を前にひかえた「陸奥」。巨大な主砲の様子が分かる
当初は恐ろしい火力を持ってして敵艦隊を粉砕する頼もしい主砲であったが、太平洋戦争開戦時には航空機の台頭により大艦巨砲主義は過ぎ去っていた。
完全に時代に取り残された本砲は、レイテ沖海戦までその火力を見せつけることはなく、1943年には「陸奥」が第三砲塔の爆発により沈んでしまう。
(真珠湾攻撃に対して「長門」型戦艦と「伊勢」型戦艦で艦砲射撃を行う予定があり、実行するかを徹夜で議論したが行われなかった)
レイテ沖海戦、そのサマール沖海戦でついに「41cm連装砲」は火を噴いた。米護衛空母「セント・ロー」に向けて放ったのが最初の主砲射撃である。
砲撃は失敗するが、その後も「長門」は99発の主砲弾を護衛空母群に向けて撃ち続けた。
太平洋戦争末期、本土決戦が時間の問題となったころ、「長門」は洋上にこそ浮かんでいたが、特殊警備艦に格下げされて浮き砲台になっていた。
ほとんどの装備は撤去されたが、この「41cm連装砲」だけは残された。予定では米軍が上陸してきた際に突撃し、本砲で砲撃を行う計画があったといわれる。
アメリカのクロスロード実験によって、大艦巨砲主義の輝かしい栄光を背負った「41cm連装砲」は、1番初めに搭載された戦艦「長門」と共に運命を共にし、完全に失われた。
現在「41cm連装砲」は、江田島の主砲塔以外にも「陸奥」から引き上げられた本砲が各地で展示されており、またダイビングスポットとなった「長門」の主砲として現在もその姿を拝むことができる。
搭載艦
長門型戦艦、加賀型戦艦(未成)、天城型巡洋戦艦(未成)、紀伊型戦艦(未成)