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東山奈央
&ref(Japanese_battleship_Kongo.jpg);英国での公開試験時の金剛。
金剛は、日本海軍が初の超弩級巡洋戦艦として発注した金剛型の1番艦。艦名は、奈良県と大阪府の境にある金剛山にちなんで命名された。
日露戦争後、日本は自国での艦艇建造に着手。初の国産戦艦、薩摩型の建造に成功する。ところが、英国が日露戦争の戦訓を元にした戦艦ドレッドノートを完成させたことで、状況は一変する。ドレッドノートは誕生と同時に、ドレッドノート以前の戦艦全てを「旧式」へと追いやった、革新的戦艦であった。同艦の誕生により、世界は弩級戦艦時代へと突入。日本も河内型戦艦を建造するも、満足いくものではなかった。
そこで日本は弩級艦建造の技術を学ぶため、英国に主力艦建造を発注した。英国の造船メーカーは高品質な軍艦の輸出に古くから定評があり、長らく英国艦ユーザーだった日本海軍としては当然の選択だったろう。一番艦となる金剛は、戦艦三笠の製造も手がけた英ヴィッカース社のバーロー造船所で1913年に建造されている。設計はヴィッカース社の設計顧問であるジョージ=サーストン卿。サーストン卿が手がけ、建造されていたトルコ向け戦艦レシャド5世と英国の新型巡洋戦艦ライオンをベースとして設計されている。主砲にはヴィッカース社が手がけた輸出艦用の35.6cm連装砲を装備。機関には当時一般的なパーソンス式の直結蒸気タービンを使用している。金剛は35.6cm砲搭載艦では世界初の竣工となり、30ノット近い速度も相まって、まさに世界最強の巡洋戦艦として生まれた。その性能は、金剛の高性能・設計の優秀さに慌てた英国海軍が、わざわざ金剛型の砲配置に範をとった巡洋戦艦タイガーを就役させたほどである。
そして、金剛の設計図を元に、横須賀海軍造船所で「比叡」、神戸川崎造船所で「榛名」、三菱重工長崎造船所で「霧島」の同型艦三隻が建造された。これにより、日本は官民が共に最新の技術の習得に成功。日本の造船技術は大きく底上げされたのだった。なお、本艦の建造に際しシーメンス事件という贈賄事件が起こり、時の第1次山本内閣が内閣総辞職に追い込まれた。
竣工後、姉妹4隻で第3戦隊を編成。当時としては世界最強の部隊であり、第一次大戦では英国から貸与の申し入れがあったとも言われる。第一次大戦の後、金剛姉妹は大戦の戦訓を取り入れるべく改装工事を実施。この改装では排水量が増大し、高速性も喪失。戦艦に類別変更された。1920年代後半にはワシントン軍縮条約に基づき、艦齢20年を越えようとした金剛型を置き換える新戦艦が計画され、実際に設計図が提出されるところまで至った。結局1930年のロンドン軍縮条約の締結により代替艦の建造も禁止され、計画は破棄されたが、この時の経験が後の大和建造につながることとなる。代替艦の建造が間に合わなかったこともあり、1935年より行われた二度目近代化改装では、老朽化した主機関の変更を含む大規模な工事を実施。エネルギーロスのより少ないオールギアードタービンを装備したことで再び30ノットの高速性を取り戻し、高速戦艦として復活した。
&ref(Kongo_after_reconstruction.jpg);改装後の金剛
いざ日米開戦となると、金剛は姉妹と共に戦場を駆け回った。金剛姉妹が軒並み30ノット前後を発揮出来た事、艦齢30年近い老朽艦で出し惜しみせず使えたことが影響したと言われる。老朽艦とあって装甲はやや心もとないが、火力は他の戦艦に引けを取らず、なにより自慢の快速っぷりは、性能の衰えを一切感じさせないものであった。金剛は主に三女榛名と組むことが多く、開戦直後は英国東洋艦隊に備えて、南方方面へと出撃した。戦場がソロモン海へ移ると、1942年10月、榛名と共にガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を砲撃。三式弾はじめ462発を叩き込んで飛行場を火の海に変え、戦艦の陸上への砲撃がいかに強力かを知らしめた。
1944年、マリアナ沖海戦では、戦没した比叡と霧島に代わり機動部隊の護衛として出撃している。続くレイテ沖海戦では、榛名と共に第1遊撃部隊として出撃、サマール沖で羽黒、筑摩などの重巡たちとともに米艦隊へと突撃し、米護衛空母ガンビア・ベイ、駆逐艦サムエル・ロバーツを撃沈。ドイツ海軍のシャルンホルスト・グナイゼナウと並び空母を撃沈した稀有な戦艦となった。
その帰路となる11月21日午前3時ごろ、金剛は台湾沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受け、左舷に2本被雷した。(このとき同時に駆逐艦浦風も被雷轟沈し全員戦死)金剛は16ノットで退避。特に速力が落ちることもなく、航行に支障が無かったためか、艦長以下誰もが「たかが魚雷2本で沈むわけがない」と考えていた。しかしこの日はかなりの荒天で波も高く、艦齢30年を越え老朽化した船体は激浪に勝てず、損傷箇所から鋼板が裂けリベットも飛び、浸水が増して徐々に傾斜が増大。潜水具をつけての作業も手遅れで、午前5時20分には機関停止となった。その10分後、金剛は転覆して沈没。沈没の直前に艦中央の弾薬庫が爆発した他、総員退艦が遅れたこと、荒天であったことから艦長島崎利雄大佐、第3戦隊司令官鈴木義尾中将以下1300名もの犠牲者を出した。駆逐艦浜風、磯風に救助された生存者は237名だった。 なお、潜水艦に沈められた日本の戦艦は、本艦のみである。沈没時に下ろされた金剛の軍艦旗は、福岡県の飯塚市歴史資料館に保存されている。
余談だが、米海軍は金剛姉妹を脅威に感じており、アイオワ級戦艦は金剛型を圧倒できる事を重視して建造された側面がある。
戦後、金剛の名は、海上自衛隊初のイージスシステム搭載艦である、こんごう型護衛艦のネームシップに受け継がれた。本来「こんごう」の名ははるな型ヘリ護衛艦に続く、新型ヘリ護衛艦に「きりしま」共々採用される予定だった。しかし、防衛庁長官(当時)だった金丸信が自らの選挙区にある「白根山」の名を推した為、新型護衛艦は「しらね」「くらま」と名付けられ、金剛姉妹の復活はお預けになったということがあった。また金剛の艦名は帝国海軍・海上自衛隊にとってエポックメイキングな艦につけられる傾向があり、初代のコルベット艦金剛は日本初の新造巡洋艦、二代目の戦艦金剛は日本初の超弩級戦艦、そして三代目のミサイル護衛艦こんごうは日本初のイージス艦となった。更に、各艦とも歴史上重要な役目を果たしており、コルベット「金剛」は現在まで続くトルコとの友好の起点となったエルトゥールル事件で初代「比叡」と共に生存者の送還し、日清・日露戦争にも参加。戦艦「金剛」は上記の通り。イージス護衛艦「こんごう」は日本初のイージス艦として、新こんごう四姉妹と改装中の後輩のあたご姉妹と共にミサイル防衛の基幹を担っている。
横須賀鎮守府(1913~1935)→佐世保鎮守府(1935~)
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