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洲崎綾
舞鶴工作部で1930年2月21日起工され、1933年3月31日竣工。
1934年11月から姉妹艦である「暁」「雷」「電」と共に第6駆逐隊を編成した。1940年11月には第1艦隊第1水雷戦隊に編入され太平洋戦争を迎える。1941年12月からカムラン湾方面哨戒、リンガエン湾上陸作戦支援に従事。1942年2月からはジャワ作戦船団護衛、バタビヤ沖海戦、比島攻略作戦に参加。5月に北方部隊所属となったが、キスカ島占領作戦中の6月12日キスカ湾において米海軍機PBYカタリナ飛行艇から至近弾を受け、艦首がもぎとられてしまう。前部主砲周辺まで浸水し、あわや沈没かと思われたが3時間あまりの応急修理の末に浸水をとめる事に成功。&bold(){響の不死鳥伝説はここから始まる。}僚艦「暁」の護衛を受けながら後進で退避し、6月27日には大湊に帰投した。その後大湊、横須賀において10月まで修理を受けることとなる。11月には空母「大鷹」を護衛し、横須賀からトラック泊地間を往復した。縁があったのか1943年2月にも再び「大鷹」を護衛し横須賀・トラック間を往復している。4月に第1艦隊第11水雷戦隊に編入、内海西部で訓練に従事し、5月に再び北方部隊に加わり千島方面の対潜掃蕩に従事した。7月、第1次、第2次キスカ島撤退作戦に参加。8月には、上海・ラバウル間のT2号輸送作戦に参加。12月には陸軍部隊をトラックからクサイ島まで輸送。12月20日には連合艦隊付属となり、さらに空母「飛鷹」「龍鳳」を呉まで護衛した。
1944年1月から3月まで空母「海鷹」「千代田」などの護衛にあたった。その後呉に入港し修理を受け、5月3日に呉を出港しマニラまで船団護衛に従事。5月10日には第1機動艦隊補給部隊に編入された。5月14日、姉妹艦「電」と共に補給船団の護衛に就く。その際、「電」が米軍潜水艦により撃沈されたため「響」は生存者の救助を行った。&bold(){『響の救助活動も見るのです!』}しかし、残念ながら艦長以下169名もの死者が出てしまった。ダスビダーニャ。これは輸送船を狙ったものの狙いが外れ、「電」に当たったものだとされている。「電」と持ち場を交代して僅か30分後の悲劇であり、「電」が「響」の身代わりになった形であった。こうして響は目の前で「電」を失い、1943年のソロモン海海戦で「暁」を、1944年4月に「雷」を失っていた第六駆逐隊はついに「響」一隻を残すのみとなってしまう。6月にはマリアナ沖海戦に参加。速吸船団を護衛し、対空戦闘で4名が戦死、6名が重傷を負った。7月17日には呉に入港。8月から内地・台湾間の船団護衛に従事し、9月6日に高雄市からマニラへの船団護衛任務についた。出港直後、「響」の隣を航行していた輸送船「永治丸」が撃沈され、救助作業にあたる。その作業中、米潜の雷撃を受け前部士官室より前がちぎれかけた。しかし響は沈まない。&bold(){不死鳥の名は伊達じゃない。}戦死者は10名でたが修繕は可能。艦首をいたわりながら後進で曳航されつつ帰還し、馬公で応急修理が行わて基隆に回航されたが、ここで天候不順により乗員に赤痢患者が発生してしまう。そのような状況だった「響」だが、それでも護国丸の護衛を担当。11月7日に相前後して日本本土に向かうことになった。しかしながら「響」艦内で赤痢がいっそう蔓延。一刻も早く佐世保に急がなければならなくなり、ここで「響」は「護国丸」と別れることとなる。無事佐世保には到着したが護衛するはずだった「護国丸」は単独行動となり、米潜水艦の雷撃で沈没している。ダスビダーニャ。その後「響」は横須賀で修理を実施する。「響」は第二艦隊に所属していたが、この損傷によりレイテ沖海戦に参加できなかった。&bold(){『不死鳥の秘密は修理のタイミングにもあるんだよ。』}
1945年1月25日に第二艦隊第二水雷戦隊第七駆逐隊に編入。3月29日には戦艦「大和」の沖縄水上特攻作戦に従事すべく呉を出港し、艦長から乗組員にも作戦の説明が為された。しかしながら午前9時、周防灘で触雷して航行不能となり駆逐艦「朝霜」に護衛されて呉に帰投する。&bold(){だがそこは不死鳥。}夕刻には速力8-9ノット発揮が可能となったため自力で呉に向かい、「朝霜」は「響」の無事を見届けて去った。スパスィーバ。この後、第二水雷戦隊は菊水作戦に出撃。4月7日の坊ノ岬沖海戦によって「初霜」、「冬月」、そしてあの「雪風」を残して壊滅している。途中まで護衛してくれていた「朝霜」も交戦前に機関故障を起こして艦隊から落伍し、米軍機の攻撃で沈没・全員戦死した。もちろん修理中でなければ響も参加していたはずである。&bold(){『不死鳥の秘密は修理のタイミングにもあるんだよ。』}修理完成後は5月に舞鶴へ、6月に新潟へ回航されて第七駆逐隊司令艦となる。7月10日には第1海上護衛艦隊第105戦隊に編入され、日本海での船団護衛に従事。終戦の8月15日にも米軍機との戦闘を行っている。時間にして1945年8月15日午前7時頃、玉音放送のわずか5時間前に、響はB29へ対して発砲を行った。この発砲は帝国海軍が行った最後の射撃だとも言われている。
終戦後、武装解除の上で復員輸送に従事し、1947年7月5日、ナホトカ(ソ連側の資料によると大湊)で賠償艦としてソ連に引き渡された。7月7日にはウラジオストクへ回航され、ソ連海軍太平洋艦隊第5艦隊に編入される。ここから響のロシア生活が始まることとなった。
7月22日には、「響」はヴェールヌイ(Верный)と改称された。本人の申告通り「真実の、信頼できる」といった意味のロシア語の形容詞となっている。ソ連への引渡し後、再武装を施された他艦から類推するに「響」もソ連製の火砲類で再武装を施されたと見られているが詳細は不明である。
1948年7月5日には第一線を退き、練習艦に種別を変更された。同時に、艦名もデカブリスト(Декабрист)に改められた。これは、ロシアにおける革命運動の端緒となった12月党の乱の参加者のことである。本人はВерныйが最後の名と言っているのでおそらくここで艦艇としての船生を終えたと認識しているのだろう。
その後、デカブリストには他の旧日本艦同様に近代化改修計画が持ち上がったものの、政府の方針変更によりこの計画は中止された。最終的に、1953年2月20日には老朽化を理由に除籍され、1970年代にウラジオストク近郊のカラムジン島沖にてソ連海軍航空隊の訓練標的として撃沈された。軍機であったためかこの事実はソビエト崩壊まで伏せられ、古い資料では解体されたとの欺瞞報告が為されていた。近年になってやっとその所在が判明して、現在はダイビングスポットとも紹介されている。
なお、ヴェールヌイという艦名はロシア第5艦隊に所属した30-bis型駆逐艦に受け継がれている。また、響の艦名を持つ艦艇としては海上自衛隊の音響測定艦「ひびき」が挙げられる。但しこれは特型駆逐艦の名称を受け継いだというよりは、音響測定という任務からの命名によるところが大きく、また、直接の命名の由来は地名の響灘によるものである(姉妹艦は播磨灘に由来する「はりま」)
&bold(){時報は1/29(水)から実装。}
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