陸奥 の変更点

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*CV [#k182b668]
佐倉綾音

*Illustrator [#u5e46303]
しずまよしのり

*史実情報 [#k46234d2]
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竣工時の姿。突貫工事を行うも軍縮会議には間に合わず、完成度6割で「竣工」と言い張ったという。

1921年竣工 1943年沈没

長門型戦艦の2番艦。
日本海軍の対米大規模海軍拡張計画、所謂「八・八艦隊計画」の第一弾として長門と共に計画されたのが、 陸奥 である。
艦としての特徴・新機軸は姉妹艦である長門と共通する部分が多いが、長門よりも1年遅れて建造されたため、測距儀等に差異が生じている。

完成間近に開催されたワシントン軍縮会議で、未完成戦艦は破棄されることが決定。未完成だった 陸奥 は工程を繰り上げ、内部装備が未完成のままながら強引に竣工する。
因みにこのとき装甲板の製造能力が不足していた為に本来の性能に達しない、あるいは本来使用すべき装甲板とは違う種類のものまで取り付けて強引に完成に持ち込んでいる。
当然、米英からは異論が噴出。立ち入り調査等が行われ、会議もあわや決裂かと思われたが、なんとか廃艦は免れた。
とはいえ、 陸奥 の復活で各国の保有比率が再調整され、米国はメリーランド級戦艦3隻、英国はネルソン級戦艦2隻の建造が認められている。
後に山本五十六はこの事を「 陸奥 1隻の為に、米英の戦力を強化してやったもんだ」と皮肉っている。 

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1936年(昭和11年) 1月下旬 近代化改装を完了しテスト中の姿

  1933年 第二次改装前の姿。特徴的な屈曲煙突が人々に愛された。

竣工後の 陸奥 は第1艦隊第1戦隊へ編入された。本人の台詞の通り、世界のビッグ7の1隻に数えられ、長らく1番艦の長門と共に日本海軍の顔であった。
関東大震災では災害派遣に出動したほか、紀元2600年特別観艦式(1940年)にも参加している。
1934年から近代化改装が行われたが、その際に主砲砲身が加賀型戦艦用に開発された新型砲に交換され、また砲塔も加賀型の旋回装置を空気式とした新型に換装された。
その際取り外された旧来の水圧旋回式の4番砲塔は、海軍兵学校の教材として江田島に保管され、今もその姿を見ることが出来る。
 
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近代化改装を終えた姿。

第二次世界大戦開始後は真珠湾攻撃・ミッドウェー海戦・第二次ソロモン海戦に参加したが、
大和や長門同様、主力として温存されていたこともあって殆どが後方部隊で交戦の機会はなかった。
第二次ソロモン海戦では前進部隊に所属しながら、機動部隊に従って突進する重巡部隊の快速に付いていくことが出来ず、警戒の駆逐艦を付けられ後方に残されてしまった。
いざ決戦と勇み立っていた 陸奥 乗員たちの驚きと落胆はひどく、かける言葉が見つからないほどだったという。

1943年1月にトラック島から横須賀に到着。その後は内地待機が続いた。
そして6月8日、広島湾沖柱島泊地にて錨地変更作業中、第三砲塔付近で突如爆発が発生。船体は二分されそのまま沈没してしまった。同年9月除籍。
世界有数の戦艦と謳われ、平時より国民に親しまれた戦艦としては非常に呆気ない最期であった。

なお、この年(1943年)は山本長官戦死やアッツ島玉砕など暗いニュースが続き、これ以上国民感情を悪化させられないと、沈没の事実は一般には秘匿された。
しかし、連合艦隊の各艦には通達を行っていたため、軍港周辺の地域では半ば公然の機密状態だったようである。

沈没の原因については諸説言われているが、明確な原因は分かっていない。
機密事項の多い主力戦艦だったことや、戦況が悪化しつつある時期だったこと、更に乗組員の約8割が戦死したため、当時の人員の挙動が解明できないからである。
ただ、爆発事故直後に査問委員会が設置され、原因調査は行われている。
委員会は目撃者証言と確認実験から、爆発煙が主砲弾用の九三式一号装薬によるものだったと結論づけ、原因の候補だった三式弾の自然発火説は否定された。
真相は、度々フィクションの題材や論説の種になっており、スパイの破壊工作、三式弾の自然発火による暴発、数年前に潮が投下した爆雷によるもの、
乗員のいじめによる自殺や下士官による放火、煙草の不始末まで、有る事無い事諸説入り乱れている。

ちなみに、外洋と比べれば水深の浅い瀬戸内海で、米軍の空襲を受けずに沈んだため、現在見ることが出来る装備は日本海軍の戦艦の中でも多い。
1970年より引き揚げ作業が行われ、船の科学館や呉の大和ミュージアムに主砲が、靖国神社には副砲が展示されている。
(なお、全て引き上げたらサルベージ業者が破産してしまうとして、引き上げは70%程度で終了。今も艦橋周りの艦体の30%が柱島泊地に沈んでいる)

また、特筆すべきなのが「産業材料としての 陸奥 」である。
戦後の製鉄法では、炉の摩耗検査のため微量の放射性同位体を炉の煉瓦に含ませており、そこから作られた鉄もごく微量ながら放射能がある。
一般的な目的では全く問題にならない量なのだが、放射線を扱う精密機械となると話は別で、低線量被曝を精密に測定する機器では鉄から発する放射線の為に精度が悪くなってしまうのである。
一方、 陸奥 は戦前に建造されたためそのような放射性同位体は含まれない。そのため引き上げられた 陸奥 の艦体に由来する鋼材は 陸奥鉄 と呼ばれて珍重され、大学などの放射線測定機器で遮蔽材として有効利用されている。 


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|>|>|艦歴|
|発注|>|八八艦隊計画第2号艦|
|起工|1918年06月01日|於横須賀海軍工廠|
|進水|1920年05月31日|長門型戦艦二番艦“陸奥”と命名|
|竣工|1921年10月24日|軍縮会議に間に合わせるため未完成のまま引き渡される。佐世保鎮守府所属|
||1921年11月11日|ワシントン海軍軍縮条約会議にて米英より廃艦が主張される|
||1921年11月18日|第一艦隊第一戦隊へ編入|
||1922年02月02日|米英戦艦各2隻の建造続行と引き換えに陸奥の保有が認められる|
||1923年09月01日|関東大震災発生に伴う救援物資輸送を実施|
||1934年06月01日|横須賀鎮守府へ転籍|
||1934年09月05日|近代化改装工事に着手|
||1936年09月30日|工事完了|
||1937年08月20日|第二次上海事変勃発に伴い陸軍第11師団(上海派遣軍)を上海へ輸送|
||1940年10月11日|紀元2600年特別観艦式に参加|
||1941年12月06日|ハワイ攻撃支援を実施|
||1942年06月05日|ミッドウェー作戦に参加|
||1942年07月14日|姉妹艦“長門”と共に第一艦隊第二戦隊へ編入|
||1942年08月17日|トラック島へ進出|
||1942年08月21日|第二次ソロモン海戦に参加|
|沈没|1943年06月08日|広島湾沖柱島泊地にて 三番砲塔下弾火薬庫の爆発 により爆沈|
|除籍|1943年09月01日||

参考動画
[[長門と陸奥は日本の誇り~陸奥篇~:http://www.nicovideo.jp/watch/sm22620572]]
*台詞一覧 [#se079ebe]
|自己紹介|長門型戦艦2番艦の陸奥よ。よろしくね。あまり火遊びはしないでね…お願いよ。|沈没の原因は非戦闘時の主砲火薬庫爆発(原因不明)だった|
|秘書クリック会話①|何?||
|秘書クリック会話②|何か用なの?||
|秘書クリック会話②(改造後)|だから火遊びはしないでって言ったでしょ?え、本気なの?ふぅ~ん、お姉さん知らないぞ?|お願いします|
|秘書クリック会話③|だから、私の中で火遊びはやめてって言ったでしょ?ねえ聞いてる?|同上|
|戦績表示時|提督にご伝言よ||
|編成選択時|戦艦陸奥、出撃よ!||
|装備時①|あら、いいのに。別に何も出ないわよ?||
|装備時②|ふ~ん?悪くはないわね。ありがとっ||
|装備時③|あら、あらあら||
|>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)|
|ドック入り|ちょっと、お化粧直してくるわね||
|ドック入り(重傷)|服が傷んでしまったわ。丁寧にお願いね||
|建造時|新しい艦が出来たみたいね||
|艦隊帰投時|艦隊が帰ってきたわね||
|出撃時|私の出番ね。いいわ、やってあげる!||
|戦闘開始時|敵艦発見!全砲門、開け!||
|攻撃時|選り取り見取りね、撃てー!||
|夜戦開始時|さーて、とどめを刺すわよ||
|夜戦攻撃時|第三砲塔…何してるの?|第三砲塔下弾火薬庫が原因不明の爆発を起こし轟沈|
|MVP時|あら、私?ふーん、そんなこともあるわよね。悪い気はしないわ||
|被弾小破①|やだ、当てたのね||
|被弾小破②|っふ~ん、少しはやるじゃない…!||
|被弾カットイン|ば、爆発なんて…しないんだから! んもぅ…||
|撃沈時(反転)|戦いで沈む…なんでだろう…あまり悔しくはないわ…||

*同型艦 [#zbf5c842]
長門 ― 陸奥

*コメント [#x2e5be09]
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